
毎週、ある村へ教会の人たちと共に行って、子供たちに聖書の話をしている。こちらの国の言葉を使って、子供たちに話し始めてもうすぐ2ヶ月くらいが経つ。最初に比べたら、話す言葉も少しずつだけど良くなってきているのかもしれない。毎週の話のために苦しみながら準備することが、良い勉強の時ともなっている。といっても、何でここでというところで今だに子供たちに笑われるけど・・・。笑われて、笑われまくって、いくらの感じだ。
今から振り返ったら、2ヶ月前、最初に子供たちにこちらの言葉で話した時は、文法も何もかも目茶苦茶だった。緊張して、頭が真っ白になって、いったい自分は何語を話してたんだろうって・・・(もちろん今でもそう思うこと多し)。でも、「先週、何について話したか覚えてる?」と子供たちに聞くと、必ず2ヶ月前の、最初に話した時の話のことを言う。それも毎週毎週だ。いやいや、それはもうかなり前の話なんだけど。それでも、子供たちはいまだにその話を強く覚えてるのだ。(一週前の話は忘れてるのにね。)
いつもそれを聞きながら、不思議に思う。文法が目茶苦茶でも、発音があいまいでも、話はしどろもどろでも、なぜかその時の話が一番子供たちに覚えられているということに。もちろん、だからといって、言葉が上達しなくてもよいというわけじゃない。これだけは、苦しみながら、祈りながらひたすらに前に進むしかない。でも、一番大事なのは、話す言葉を超えて、目に見えない力が確かに働いているということ。目に見えないお方が、人間の口を通して、聖書のことばを用いて、人間の心に働きかけておられるという事実。その働きが無ければ、どんなに上手に流暢にペラペラと話せたところで、人間の心には何も残らないのだろうと思う。
人間の弱さを通して、働かれる神の真実を、いつもひとつの静かな村で思う。
●写真は村で撮ったアヒルの大行列